母子手帳1冊じゃ足りない
こちらの記事を執筆しました。
妊娠すれば、女性は母子手帳を配られます。
その後は妊婦健診を受け、妊娠中に母親学級があり、産後は1ヶ月健診、3ヶ月検診、6〜7ヶ月健診、9〜10ヶ月健診、1歳半健診。これらは自治体によって異なりますが、集団で行われるか、小児科に行くかでしょう。
人間1人を育てるのに、これだけじゃ足りません。
以前までは足りていたのでしょう。祖父母と同居し、近所や親戚などとも頻繁に顔を合わせた時代なら、自然と育児の知識はついた。現代の育児の知識もゼロ、経験もゼロの女性に、里帰りが終わったらたった1人、密室で育児しろと言われても無理でしょう。
虐待の対策も必要だし、産後鬱や産後クライシスへのケアも必要ですが、そうなる前にできることがもっと、もっとあると思います。
子育て支援センターも児童館もありますが、正直使いにくいです。私は行きますが、行かない、行くのをやめたという声はよく聞きます。
「子どもは社会のもの」というならば、具体化を。
記事にも執筆しましたが、たとえば特に1人目の未就園児を持つママは孤独になりやすいので、地域の公民館などで2週間に1回など集まるようにする。「定期的に」「同じメンバー」が集まる、という部分が大切で必要です。
一方で高齢者の孤立化も叫ばれていますが、高齢者と子育て世代を繋ぐ方法も考えられそうです。個人的には小学生の登下校中、高齢者の方の目がもっとあると有難い。
自治体ができることが、もっとあると思う。
ペンは剣よりも強し
目黒区の虐待事件を知ってから、心に重い塊のようなものがあるような感じで、スッキリとしません。こういう時は書くに限りますね。
一昨日、園の行事がありました。事件と同じく、5歳の女の子が沢山いました。みんな髪を可愛く結ってもらって、ハツラツとしていて、笑顔で。このくらいの年齢の女の子は、仕切り屋さんだったり、オシャレにこだわりがあったり、しっかりしている子が多いですよね。長男が年長のとき、よく女の子たちにお世話されていたのを覚えています。彼女たちの笑顔を、悲しい気持ちで、眺めていました。
小2の長男の、5歳のときのことを思い出します。以前「5歳で義務教育」という話が出ていましたね。当時長男と話していて、5歳というと幼稚園児より、もう小学生に近いと感じた記憶があります。
5歳にもなれば長期間の記憶力もありますし、複雑な感情も持ち合わせているし、理解力もあり、他人を思いやりもある気持ちもあります。大人とほとんど変わらない会話ができます。
第一子長女で、大人しい性格、さらにあれほどの文章力のある結愛ちゃんですから、優しく、思いやり深く、賢い子だったことが想像できます。結愛ちゃんは何を思っていたのか…想像を絶します。
私の祖母は肺がんで亡くなりましたが、最後は餓死と同じ状態でした。嚥下障害になり、医師からはこうなるともうダメだと話され、最後の2週間は食べることも飲むこともできませんでした。水分を取るだけでむせて死んでしまうから、あげてはいけないという指示があるんですね。
でも、意識も頭もしっかりしており、胃だって元気なわけです。ただ飲み込めないだけで、体は元気。7月の、暑い季節のことです。
飲食禁止になってから亡くなるまでの2週間、祖母は食べ物や飲み物の話しかしませんでした。当時は長男がまだ生後半年で、病院まで距離があるので2日に1回お見舞いに行っていましたが、「一口でいいからかき氷が食べたい」「いなりずしが食べたい」「内緒で水を持ってきてくれ」そういう会話ばかりでした。
「これだったら死んだほうがマシだ」とも言ったそうです。
祖母の死後、最期を見舞った母と私は、精神的にショックを受けました。祖母が亡くなったことはもちろん、その亡くなり方に対してです。最期あのようになってしまうんだったら、何で生きているんだろう、生きるとは何だろう、そういった考えばかり巡った記憶があります。母は半年ほど寝てばかりいたそうです。
今回の事件の父親は、何を思って119番したのでしょうか。
先日長女が痙攣を起こして119番したとき、無意識のうちに「助けてください」と私は叫んでいました。救急車が到着するまでは生きた心地がせず、お願いだから助けてほしい、その気持ちでいっぱいでした。
病院にも連れて行かないのに、最期になってかけた119番は、何のための救急要請だったのか。
ただ、もう人間ではなくなっていたことはわかります。人のできることでは、ありませんから。理解できなくて当たり前なのだけれど、やりきれない。
自分が何を思ったとしても、何ができたわけでもない。けれど、やりきれなくて、結局書くことしかできないけれど。
こういう辛い出来事があるたび、思い出すのが、予備校時代の小論文の授業です。
当時ジャーナリストを希望していた私は、「戦地で取材中、目の前に銃で打たれそうな女の子がいます。あなたは彼女を助けますか、それとも写真を撮りますか」という小論文で、自分はジャーナリストに向かないことを知りました。
同じ問題で、「戦争を止めたいと思ったら、あなたはどんな職業に就きますか」という問いがあったんですね。政治家ではダメなんです。政治家は身動きがとりづらいという話でした。そのときの問いの答えで哲学科に進学することを希望しました。
「ペンは剣よりも強し」-それが原点にあることを、今回の事件でまた思い出しました。
何かあるたびに戻るのは、いつも同じ原点。もう一度自分の行動を見つめ直そうと思います。
私たちは「子どもの人権」を意識できているのか
目黒区の船戸結愛ちゃんの虐待事件のニュース、涙をした方も多いでしょう。新たな報道が出るたび、目を通すのも心が痛いけれど、逃げてはいけないと思い目を通しています。
一つ一つの事件は比較できるものではありません。けれども今回の事件ほど、苦しく、辛く、考えさせられる事件はないのでしょうか。それは結愛ちゃんが残してくれた、文章のおかげでもあるでしょう。
虐待のニュースを目にするたび、自分が傷付いたところで、こういったニュースがなくならないことと、自分の無力さに落ち込みます。
自分には何ができるのか。
1人でも多くの子どもが、子どもらしく、子ども時代をのびのび過ごせるために、自分には何ができるのか。今までも考えていましたが、今回ほど、改めて考えさせられることはありませんでした。
子どもには、大人しかいません。大人が手を貸さなければいけない、大人が、守らなければいけない。それは見返りも何も生まれない、生き物として、ごく当たり前のことです。
自分もその一つの手として、子どもに関わることに人生を捧げると決めました。今は文章で子育て支援をと思っていますが、執筆分野を狭め、取材を増やしていくつもりです。取材記事にしようと思ってるのは、甘えとしつけについて。同時に、直接子どもと関わる仕事に受けて勉強中でもあります。
日々の忙しさの中にいると、そして現代のように孤立して育児をしていると、子どもの人権を忘れそうになることは、私も毎日あります。自分より大切な存在なのに、小さいからという理由だけで、大人には言わないようなことを言ってみたり。
虐待は、親側の心の問題とも言われていますよね。環境のせいも大きいでしょう。改善点は山ほどありますね。
日本は1994年に国連の「子どもの権利条約」に批准しています。
子どもの権利が重視される世の中になるよう、コツコツと努力していきたいです。
我が子のけいれんを目撃した親の心のケア
先日、1歳の娘が胃腸炎由来のけいれんを起こし、救急搬送されました。幸い予後はよく、けいれんを繰り返すこともなく、胃腸炎も治り、今では元気に歩き回っています。
それに反して、目撃した私の心の戻りはゆっくりです。
子どもは様々な表情を見せてくれます。笑顔、怒った顔、ひょうきんな顔、甘える顔、泣き顔…その中でも、一生見たくないと思う、いや願う、親としてとても悲しい我が子の表情でした。
「けいれんした」と言えば一言ですが、それを目撃した親のメンタルのケアも必要だと感じさせられた出来事でした。
経験は、知恵になる。経験は生かすことができます。
同じ思いをされた方がいたら、ゆっくり話を聞き、気持ちに寄り添いたいと思う出来事でした。
何かと理由をつけてやらない、を止められた理由。
夢が答えを教えてくれることがあります。夢を見て、何だそうだったのか、と気付かされることが。
今日見た夢は、長年後悔していたことの答えとなる夢でした。後悔を引きずっていた理由は、「何かと理由をつけてやらなかった」から。
子どもを産んで気付かされたのが、人間の一生はあっという間ということで、好きなことだけやって人生100年生きたとしても短いと感じるくらい世界は広く物事は深いのだから、1番好きなことだけをしようと心に決めました。
それからライターの仕事を始め、子どもを3人育てながらの、今現在。あれから7年経ち、好きなことだけをする毎日。
何故このタイミングで、夢で気付かされたのだろうか。やりたいことが、また出てきたからかな。
何かと理由をつけてやらなかった、その長く深い後悔は、時間が解決してくれるだろうと思っても、してくれなかった。何と他人任せ、時間任せだったんだろう。
でも、あれだけ深く後悔したからこそ、「今は1番好きなことだけしかしない」と強く心に決めることができたと、今では思っています。あれもまた、必要な経験だったんですね。
時間は解決してくれないから、自分で解決するしかないのだ。
夢がくれたメッセージを心に、またこれからを具体的に考えようと思います。
かがやきと、Maxときの連結と、ときと。
実は鉄っ気があります。新幹線好きな長男&次男に感化され、私も鉄道好きに。新幹線とか…たまりません。
今日のお気に入りの1枚はこれ。
かがやき!
Maxときの連結シーン。
わー連結した!
Maxときのマーク
朱鷺色、綺麗ですね。
長男大好きな、とき。
Maxときとかがやきコラボ。
Maxときとときは、もうすぐなくなってしまいますね。まるで建物のように大きなMaxとき、今のうちに見ておきたい。黄色いラインも好きでした。
子どもができて趣味が増えたことは嬉しいことです。
いつの間に「こちら側」に来たのだろう。
小学生の長男を送る帰り道、小学生たちが「おはようございまーす」と私に挨拶をしていく。「おはようございます。」と返しながら、いつから‘こっち側’に立つようになったんだっけ、と思い起こす。
私が‘あっち側’にいたのは、ついこの前のことのようで。大人がいる、ちゃんと挨拶しなきゃって、ドキドキしながら挨拶したっけな。
いつの間にか気付いたら、挨拶される側に立っている。‘こちら側’と‘あちら側’に、大きな差なんてあるのかな? 大して変わらないような気もする。いつだ、いつこちら側に来たんだ。
1人目を産んだときは「お母さん」って呼ばれるのがくすぐったくて、でもすぐにその責任の重さを実感して。夜泣きとか、離乳食とか、イヤイヤ期とか、看病とか…対応しているうちに幼稚園に入園して、「保護者」になって。2人目が生まれ、3人目が生まれ、長男が入学し、いつの間にか私はこっち側に立っていた。
明確な「いつ」は、ないように思う。紆余曲折しながら、喜んだり、落ち込んだりしながら、いつの間にかこちら側に立っていた。
あちら側にいたときの私とは、やっぱりよく考えてもあまり差はなくて。年齢や経験は重ねてきたけれど、相変わらず大雑把だし、おっちょこちょいだし、ポーカーフェイスとかできなくて喜怒哀楽全て出てしまう。子どものためを思って頑張るものの、失敗も反省も多い。
あの頃自分の全てで完璧だと思っていた‘こちら側’は、こんなにも弱くて、不安定で、脆くて、未熟な大人たちからできているとは思わなかった。「おはようございます」と足早に学校へ向かうこの子たちも、いつか同じような感情を抱くのだろう。
そのことに甘えてはいけないと思いつつも、やっぱり未熟な自分は、今日もまた笑ったり怒ったりしながら子どもと過ごしていくのだろう。そして長男が高学年になる頃には、こんなことを考えたこと自体忘れてしまうのだろう。
いつかまた振り返ったときに、それでも自分なりに頑張ってきたと思えるよう、今と自分と向き合って頑張っていこう、そう思うのでした。