人生は自分をデザインするもの
人生は自分を、自分が、デザインするものー
であったはずだけれど、
実際は、そうはいかない。
環境だったり、時代だったり、守るものができたり、世間だったり…いろんなものに揉まれ、自分でデザインすることを忘れたり、できないこともある。
実は、そこからが、スタートじゃないのか。
環境が厳しいこと、時代が受け入れてくれないこと、守るもののためにそうぜざるを得ないこと、世間に色々言われることはある。
それでも、コツコツと、小さくても少しずつ、日々の中で自分を、自分がデザインしていく。
1%でもいい。
産後すぐなんて全て赤ちゃんペースで、まさに1%あるかないか。それでも段々と、小さくても自分なりの楽しみや時間を、少しずつ掴んで、取り戻していく。
時代によっては、環境によっては、20%以下がしばらく続くこともある。それでもできることを、コツコツと、小さくてもやっていく。
ことごとく自分の好きにはできない環境であっても、自分の人生をデザインする。
自分の気持ちを大切に、自分の考えを大切に、日々を過ごす。
その力が、やがて50%、70%、100%と増えていき、自分を開かせる。
厳しい環境下でも、踏ん張ってやり続けたこと、守り抜いたものは強いし、何よりその意志力、ほがらかさ、切り替え力は今後の宝になる。
そうやって、自分がホンモノになる。
それに気付いたのも、逆境にいたからこそ。どんなときでも得るものはあるな、といつでも思います。
ママになって見るSATC
10年以上ぶりに、SATCシーズン6を見ました。
前回見たのは20代前半。あの頃とは住む場所も、仕事も、一緒にいる人も異なり、3児の母に。それでもSATCを見ながら、ファッション、インテリア、スイーツに憧れる気持ちは変わりません。
ただ、大きく変わったことが一つ。
当時は、4人の恋愛模様のアレコレを見ながらドキドキしたり、勉強になったり。
今注目するのは、男女の関係性の中でも、いかに「女性側が自分を大切にしているか」です。
シーズン6ではシャーロットやミランダ、キャリーは38歳、サマンサは45歳。
ミランダはシングルマザー、のちに子どもの父親と結婚。仕事は続けていて育児との両立に悩み、「どちらも中途半端」と肩を落とす場面も。家族のため、NYを離れ、ブルックリンへ引っ越します。
キャリーは一時仕事を辞め、恋人とパリへ移住という選択も。生きるのが自分だけでなく、パートナー、子どもも一緒になると、自分の好きにばかりは選択できません。
4人それぞれがパートナーを見つける過程を見ながら、それぞれが自分の気持ちに正直なこと、そして自分を大切にしていることを感じさせられました。
同時に、彼女たちのように自分に嘘をつかず、自分を大切にする姿勢は、日本にはまだ足りないかも、と。
「母親は自己犠牲をしてこそ」という価値観は、まだ日本に残ります。そこまであからさまではなくとも、「母親なのに派手な服装」「母親なのに自分の好きなことをして」と後ろ指をさされたり、ママ自身が罪悪感を感じることも多い。
今まで「母親=自己犠牲」に違和感を感じていたのは、「そこに自立が感じられないからだ」と、SATCを見ることで気付かされました。
日本では、母親になると自立した女性として扱われないのは何故だろう?
主婦がいなければ、家庭が回らないからでしょう。家事に育児に従事するものがいなければ、たしかに家庭は回りません。
丁寧な暮らしには憧れる一方で、夫婦だけ&女性が仕事をもっても家庭が回せるよう、家電の開発や保育施設の充実、意識改革がされる現代はステキだと思います。まだまだ足りないですが。
未来に悲観的な話も多いけれど、生き物は「進化」するもの。しなくて良いことはせず、やりたいことができる世の中に変わっていくのではないだろうか。
SATCほどに女性が自分を大切にするには、まだまだ制度も意識も足りないし、それほどガンコな考えなわけですが。
確実に、時代は変わる。
自分からはじめ、その姿を次世代に見せていきたいものです。
幸せは「質より量」
「当たり前の日常が幸せ」と、「幸せはささやかなるが極上」と感じるようになって、幸せは「質より量」なのでは?と思うようになりました。
今までの幸せって、「質」に重きを置いていたと思うんです。容姿や学歴、お金や才能といった「質が高いものを保有していれば幸せ」という。
でもほんとうは、幸せに限っては、質より「量」なのではないか。
いつもと同じように見える日々の中に、「幸せ」はたくさん散りばめられている。その幸せを1つずつ拾い、味わっていく。
よくよくみてみれば、昨日より今日、今日より明日の方が、幸せに多く気付けるかもしれません。
「幸せを発見する目と感覚」を鍛える方が良いのかも。
本当にちょっとしたこと、当たり前にきてくれる今日に、きっと幸せは何億個とちりばめられているのでしょう。
「OTONA SALONE(オトナサローネ)」さんで執筆が始まりました。
「OTONA SALONE(オトナサローネ)」さんで執筆が始まりました。
肩書はレビューライター。趣味も、癒しも、心の支えも「本」な私。本の内容を自分らしくレビューしていこうと思います!
まさに今、5月から感染症が巡り3人リレー看病続きで、あれこれ試すもいまいち気持ちがもち上がらない…そんな気持ちを変えてくれるのも、物の見方を変えてくれるのも、本です。本と言葉が、この世の中にあってよかった。
中学生の頃、「本を読めば時間も空間も超えて様々な人と触れ合える」と感動したことが忘れられません。
浪人時代のどん底を救ってくれたのは、宇野千代さん。「幸せはささやかなるが極上」も、彼女の著書から。人生のロールモデルです。
よしもとばななさん、瀬戸内寂聴さん、ニーチェ、アドラー、マルクスアウレリウス、哲学、禅の言葉に、石庭のインスタを眺めていると元気が出る。
こういうものって、何十年経っても変わらないものですね。
話がそれましたが、自分に書くことのできるレビューを執筆していきます。
「子どもが可愛くないの?」という脅し文句、そろそろやめませんか
聞いていて「嫌だなぁ」と感じるフレーズがあります。
その一つが「子どもが可愛くないの?」という一言。
たとえば母親が「仕事やパートをしたい」と言ったら、「残業したい」と言ったら、「休みの日に自分の時間が欲しい」と言ったら、疲れて夕ご飯にお惣菜を買ってきたら、この言葉が放たれます。
タチが悪いな、と思うのは、言っている相手側は「本当は子どもを可愛いと思っているのを知っていてわざと」言っていること。
それはそうですよね。本当に可愛くないと思っているだろうと思えば、むしろそんなことは言えません。
自分の価値観やライフスタイルが崩れるのを防ぐため、「『子どもが可愛くないの?』と言えばその行動を止めるだろう。もしくは罪悪感を感じて落ち込むだろう。どっちにせよ目標達成」と分かっていて言う、いわば脅し文句なのです。
思惑通り、この言葉を言われれば、母親は落ち込むでしょう。
自分は悪い母親なのか?子供に可哀そうな思いをしているのか?自分の希望はワガママで、母親なんだから我慢すべきなのか?
悶々と考えては罪悪感を感じ、自分を責め、行動を止める母親が多いのです。
母親を責め、自由を奪う、この脅し文句。もうそろそろ、このフレーズ使うの止めにしませんか?
皆、分かっているはず。母親は神様ではない、一人の人間であり、女性だと。ただ子どもを産んだだけで育児は経験も知識もないし、自分の時間も必要だし、泣きも笑いもするし、核家族・共働き社会と育児環境は厳しいと。
かくいう私も母親9年目ですが、このフレーズを言われてももう落ち込みも自分を責めもしません。またかと思い、「子どもが可愛いから言うのだ」と返すでしょう。
子どもが可愛いから、必要なこと。周囲がこういう言葉をかけたくなる母親の言動は、「安心できる家族運営」に必要なことがほとんどです。
この言葉を使いたくなる場面に、母親の本音が隠れています。どうぞ見落とすことのありませんように。
「歳を重ねる楽しみ」を拾って生きていく
先日、とある企画案を編集の方々と話していて「その分野を執筆するにはまだ若いですね」と言われました。
それは私が10代の頃から一番好きで書きたい一方で、どの方にも「固い」と言われる内容。今回「まだ若い」と言われたことで、歳を重ねる楽しみが一つ増えました。
30代半ばになると、若いと言われることはなかなかないけれど、実際はまだまだなことばかり。新卒で入社した当初、お客さんの懐に入って会話できる40〜50代女性に憧れ、早くあの域に行きたいと思ったことを思い出しました。
職種は異なりますが、年齢を重ねるにつれ、執筆できる内容も、深く、広くなっていくでしょう。そう思うと、歳を重ねる楽しみが増えました。今回受けた話を元に、40歳までの5年間何をしようかも、考えています。
歳を重ねることに良いイメージを持たれない方が多いけれど、自然なことだし、勿体無いようにも思えます。歳を重ねたからこそ分かったこと、味わえるものって沢山ある。
歳を重ねる楽しみを、一つずつ拾っていきたい。そのためにも自分に沿って生きていくほど、楽しみは拾っていけるのだとも思います。
命日。
命日っていうものは不思議なもので、当時は悲しみのあまり記憶をなくすような1日であっても、20年も超えれば穏やかな日になるものです。
今日はキレイな青空で、穏やかな風が吹いて、爽やかな春の一日で。いつも通り子どもと仮面ライダーごっこしたり、3人を連れて買い物に行ったり、仕事をしたり、仕事先の人と今後について話をしたり。
穏やかで有意義な、まさにささやかなるが極上の一日でした。
昔はとても、想像できなかった5/22。
父の写真に子どもと選んだ花を供え、ビールを分け、乾杯。当時中学生で飲めなかった私も、ビールを分けられるようになりました。
親の命日については、様々な捉え方があると思います。月日によっても、異なります。
私にとって父の命日は、自分が子どもに戻る日。いつも親として子どもを育てる自分が、子どもに戻り、問いかける日。
自分を大切にしている?自分らしく生きている?好きなことをしている?
子どものことを想い、心配し、愛する親から見て、安心できる暮らしをしている?
そう振り返る日です。