おやこ哲学 Think&Debate

子どもと一緒に、親になる。

人生は数多くの「今が一番、いい時」であふれている

道をスキップするように歩く、小学生を眺める。

世の中のものが何でも目新しい、今が一番、いい時よ。勉強も生活に根差した楽しいものが多いし、運動だって遊びだって思いきりやれる。時々叱る親や先生は怖いけれど、親といる時間も長く、まだ甘えられる時期。お友達とも、男女関係なく遊べる、いい時期だよね。

 

自転車をこぎながら制服のスカートの裾を揺らす、高校生を見ながら思う。

将来に漠然とした不安はあるけれど、どのような将来だって掴みとれる、今が一番、いい時よ。まだまだ箸が転がるだけで友達と大笑いする年齢だよね。早く大人になりたい、早く自立したいと思うけれど、家に帰るとホッとする時代。

 

お喋りしながら道行く、大学生たちを見る。

勉強して、バイトして、自由な時間が沢山あるけど、お金はそこまでない、今が一番、いい時よ。自立しつつあるけれど、まだ責任はない大学生時代。好きなことだって、趣味だって、恋愛だって、何にだって挑戦できる時間があるよね。

 

20代の綺麗にメイクをした、スーツ姿の女性を見ながら思う。

経済的にも精神的にも自立し、それでもどこにだって行ける自由がある、今が一番いい時よ。自分の生活も、インテリアも、ファッションも、メイクも、全て自分で選べる時期。この仕事じゃないかもと悩んでも、転職できる年齢。自分のためだけに時間とお金を使えるひと時。

 

そうやって若者をまぶしい目で眺めながら歩く、赤ちゃん連れの私に、「まぁ~可愛いわね~、何歳?」と見知らぬおばあちゃんが話しかける。

赤ちゃんて、見ていて飽きないわよね、見てこの手!プクプクして可愛い~とひとしきり喋った後、「あなた、今が一番いい時ね」とこちらをまっすぐ見て口にする。

 

そうか、若さも、どこへでも行ける自由も、夜遊びする自由も、将来の夢も、自分のために使える時間も全て失ったように思える自分も、彼女から見たら「今が一番いい時」なのだと、1人目のときは思った。

 

3人目の今、「そうなんです。この子ももう2歳になるんです。0歳と1歳の子の成長を毎日見ることは、私の人生ではもうないでしょう。孫の面倒を見ることはあっても、つぶさに成長を見られることはないだろう。柔らかな腕に、太ももに自由に触れられることは、もうできないだろう。

24時間365日、ママ、ママ、ママと強く求められる、誰かの唯一無二の存在になることは、これから先あるだろうか?いや、ここまで求められることは、一生に一時の経験だろう。

大泣きする誰かを心から安心させてあげることも、初めての桜や海や雪を見て背てあげられる喜びも、きっとこれが最後だろう。私、今、一番いい時にいるんです」と、心の中でつぶやく。

 

そう思えるようになったのは、もちろん3人目になってからだ。1人目は初めての子育てに、2人目は初めての複数児育児に、そう思える余裕はなかった。

 

人生には、数多くの「今が一番、いい時」であふれている。

他人から言われることで、そのことにやっと気付くことができる。渦中にいるときは、「とてもそうとは思えない」とか、「自由に動けない」とか、「そんなリスクの高いことできない」と思うものだ。

「今が一番、いい時」という言葉は、心を自由にしてくれる。心が自由になると、行動も変わる。そうしてきっと、人生も変わる。

いつの間にか好きな言葉になりました。

人格を傷つける言葉から、自分の人間性を守るための「距離」と「壁」

家族や親しい間柄になると、心の壁も薄まり、本来の自分を見せるものです。

それ自体は良いことなのですが、相手によってはケンカになると人格を否定したり、モラハラをする人もいます。

このよう人格を傷付ける言葉を言われたら、すぐに自分の人間性を守りましょう。

「どこまで自分を見せるか」は、自分で選ぶことができます。好きなもの、嫌いなもの、感情、将来の夢、喜びや悲しみ…といった「自分」を、目の前の相手にどこまで見せるかは、自分自身で決められるのです。

人格を否定したり、モラハラする人に、わざわざ「自分」を見せる必要はありません。さらにあなたを否定する「ネタ」になってしまうからです。

人格を否定されることを、許したり、受け入れるのもいけません。「これ以上はNO」という断固とした態度を示すために、「物理・精神的な距離」をとり、「心の壁」を作りましょう。

具体的には自分の話をあまりせず、感情表現も抑え、返答も減らします。とにかく自分を見せないのです。

相手の発言に的確な指摘があれば迷うものですし、実際に自分に非があるかもしれません。とはいえ誰にだって得意不得意、得手不得手ありますし、人間はみな、未熟です。非があったとはいえ、人格を傷付けられる必要はないのです

自分の人間性は、自分で守る。

それをできるのは自分しかいません。

至らないところがあるのが人間です。そこに引け目を感じたり、「言われても仕方ない」と思う必要は、本来ないのです。

至らぬ自分を受け入れるのも、そこからどうするか選ぶのも、自分。

この線引きをしっかりするようにしたいものです。

混じることのない価値観の違いは「そのまま」で  byニーチェ

悩みがあればパートナーや家族、きょうだい、友達に相談したり、ネットで検索したり、心理学の本を読んでみたり、お寺に出向いてみたり…と様々な手段をとるものですよね。

その中で「自分にはこれだ」と思う考えを選んでいくわけですが、相談相手として一番グッときたのがニーチェでした…!

■今回の悩みは「価値観の違い」について

価値観の違いについて、よくアドバイスされるのは「話し合ってお互いの妥協点を探す」ことです。

しかしそもそも「話し合いにならない人」もいます。こちらが話し合う気が合っても、向こうに話す気はないとか。話し合いじゃなくて、言い合いをして自分の意見を通したいだけの人とか。

そういった「話し合いにならない、妥協点を探し合えないパターン」少なくないと思うんです。たとえば夫婦、義両親、上司など。

そうすると結局、片方が折れたり、諦めることになります。「相手が変わらないから自分だけ頑張る」こともよくあります。

■お互い「そのまま」でいる

ニーチェは『漂白者とその影』で「自分とは逆の感性を持っている人を、その感性のままに喜ぼう」といいます。自分と正反対の人を「その状態のままで」喜ぶというのです。

つまり、「相手は変わってくれるだろう」とか、「分かってくれるだろう」「自分の意見を分からせよう」と変化を求めません。

ついつい、考えてしまうことですよね。人は基本的に変わるものではないですから、はじめから「変わらない」前提で、話を進めた方が良いのでしょう。

■価値観の理解より、存在を認める

『さまざまな意見と箴言』では、「愛とは、自分とは異なる生き方や感性を理解することである」といいます。

しかし個人的には、違うものを「理解する」のは難しいと思います。「価値観を理解しよう」として、苦しむことも少なくないでしょう。単に「この人はこう思うんだな」と「価値観よりも存在に注目して認める」方が、お互いにとってプラスとなるのではないでしょうか。

夫婦だから、親子だから、家族だから、何でも理解し合えるというわけではありません。全て理解しようとするから、苦しみが生まれます。代わりに「自分とは違う価値観だけど、その人の存在そのものを認める」と、お互い苦しみません。

兄弟姉妹って、そうではないですか? 

「弟はサッカーが好きなんだ。自分はバスケットだけど。ふ~ん」と思うだけで、価値観については違いをそのままにして、存在を受け入れますよね。

家族に関しては、これで十分だと思います。そうすれば自分の価値観も、相手の価値観も守るからです。

家族を超えた部分に関しては、物理的に距離を置いたり、心理的に壁を作ることが得策でしょう。

■自分の矛盾もそのまま愛する

「自分を愛するとは、自分の中にある矛盾や対立を楽しむこと」ともニーチェは言います。

一番しっくりきたのは、この考え方でした。他人との価値観の違いと同じく、自分の中にも対立や矛盾はあるものです。

でも「じゃあ結局、お互いそのままってことは、片方が苦労しろってこと?」と思いますよね。

「自分が苦労する」必要はないでしょう。自分が相手のやるべきことをやったり、相手に従う必要はないのです。人間は一人しかいませんから、無理のない範囲で、自分一人ができることをして、できないことはしなくて良いのです。

ただ難しいのが、子どもの乳幼児期や共働き家庭ですよね。

「諦める」という言葉は「明らかに見る」ということですが、お互いの違いを明らかに見て諦めるのも一つかもしれません。

悩みもがき、落ち込んで、恥ずかしくなることの正常さ

前回の記事に続きますが、逆に言えば、怯えたり、怖がったり、悩みもがき、ドーンと落ち込み、隠れたくなるほど恥ずかしくなることは、正常だということです。

第1次感情をしっかり感じ、そんな自分を受け止めているわけですから。

弱い自分から目をそらし、第2次感情の「怒る」という形でストレス発散しないわけですから。

だからとっても落ち込んだり、恥ずかしくなったり、悩みもがいたら、「自分は自分と向き合っている。弱い自分も受け止めている」と自信を持ちましょう。

弱い自分、ダメな自分を受け入れるということは、強い自分、良い自分をも知っているということにつ繋がります。

 

外で気を遣いまくり、家で怒りっぽくなる人の唯一の解決策

個人的な話になりますが、私の近くには外では気を遣いまくり、その反動で家に帰ると怒りっぽくなる人が2名(大人と子ども)います。皆さんの身近にもいないでしょうか? 個人的な統計でいくと、A型・長男に多い気がします。男性に多いかもしれません。

私自身、気を遣う人の気持ちが分からないわけではありません。A型・長女なので基本的に外でも気を遣うのですが、途中で…いや結構すぐに、めんどくさくなります。そこからマイペースに移行し、自分は自分だしなと思って終了。

入口の部分は理解できるのですが、続かないので、本当の意味では理解できません。そこまでになるなら少しくらい嫌われても自分を出していいんじゃないか、第一そのままでは生きづらくないだろうか、と思います。

■ストレス発散すればよいと思っていたけれど…

こういったストレスを貯める人は、周囲から「優しい」と評価されているので、まさか家でそんなことになってるとは思われにくいのです。「プライドが高い」とも言えるのですが…ちょっと違う。「自分を守りたい、嫌われたくない」という意識が、とても強いのです。

嫌われるのが怖くて怖くて、とてもではないけれど、自分を出すことができない。自分を出すことのハードルが、とても高いのですね。

彼らはどうしたら良いのか? ずっと考えていて、しばらくはストレス発散をすればよいと思っていました。家が安心できる場所であり、ストレス発散をすればいい。

これも大切なことですし、必要なのですが、「これだけでは弱い」と気付いたのが今日です。

■怒るんだったら、その場で泣いて

彼らのメカニズムは、「嫌われるのが怖い→外で気を遣う→傷付くこともあってショック→ストレスが溜まる→家で怒る」という流れです。

つまり、「怒る」のは第2次感情であり、「怖い、傷付いた」という第1次感情が先にあるのです。

そんな彼らに伝えたいのは、「怒るよりも、泣いて。怖いなら、怖がって、十分に怯えて。傷付いたなら、思いっきり落ち込んで」ということです。というか、これに尽きます。

逃げずに第1次感情としっかり向き合い、マイナス感情を発散するのです。そこにフタをしてしまうから、怒ってしまい、余計につらくなる。そのままでは、年を重ねるごとに辛くなります。

怖いなら、思う存分に怖がりましょう。怯えればいいのです。傷付いたなら、思いっきり落ち込んで。寝込んでもいいんです。自分の第一次感情と向き合い、怖がりな自分を受け入れる。そこから人生は変わります。先週の仮面ライダージオウの話みたいですね。

弱い自分と、強い自分がいる。良い自分と、悪い自分もいる。どれも自分、全部合わせて本当の自分です。

 

褒めるときに一番伝えたいのは「ありのままのあなたでいい」こと

最近とある人間関係問題についてあれやこれやと話し合った結果、「褒める」というとてもシンプルな解決方法にいきつきました

子育て中の人は、意識して「褒めよう」とする人も多いのではないでしょうか。褒めるといっても、様々な意味合いがありますよね。

私の場合ですが、0~2歳児くらいまでは「できたこと」を褒める機会が多いですが、3歳くらいからはそれに加えてその子らしさを褒めたり、認めたり、感心したり、尊敬したり、「助かったよ」と感謝するようにもなり、「褒めるバリエーション」が増えていきます。

子どもの場合は、ですけれどね。大人になると、なぜ難しく感じるのでしょうか…。

 

さて、アドラーは「褒めない」ことを主張します。褒めるというのは上下関係を作り、相手の自律性を奪うというのです。

なるほど、褒めれば「褒めてもらうために努力しよう」と相手は思うようになります。褒めること自体、「上から見下ろしている感」も否めないですよね。先生と生徒になり、上下関係が生まれてしまう。

代わりに、「横から勇気づける」ことを推奨します。感謝だったり、相手の人間性を尊敬したり、助かったと伝えることが有効でしょう。

 

そうはいっても、乳児期や幼児前期の子どもの「できた!」という笑みには、親も嬉しくなり、つい褒めてしまいます。褒めないのはとても難しいですし、本能的に褒めていてしまうのだから、それで良いと個人的には思います。

褒めるというより、「一緒になって喜ぶ」と、もっと良いのでしょう。そうすると子どもは、より笑顔になります。

さらに感謝したり、尊敬したり、助かったことを伝えると、自分の存在意義を実感でき、勇気づけられるでしょう。

 

さて、これが対大人になると難しいものです。

大人の場合は、ありのままの姿や行動を指摘するだけでも、褒めにつながるように思います。

褒めるときは、ありのままの姿を尊敬したり、ありがたがる、助かると伝えるのがよいように思います。

 

そして最も大切なのは、大人でも、子どもでも、褒めるのは「ありのままの姿」ではないでしょうか。ありのままのあなたでいいということを、伝えるために褒める。そんなことを強く思った2月始まりでした。

自分を嫌いになりそうなとき

嫌なことがあったりして、自分を嫌いになりそうなときってありませんか。ありますよね。私はあります。

そんなときは、十二分に落ち込みます。

それから、「自分の物の見方が偏っている」と考えるようにします。

アドラーもいっていますし、他の哲学でも、仏教でもいっていると思いますが、この世の中には「良いこと」と「悪いこと」があるわけではありません。あるのはただの「事実」であり、それを「良い」「悪い」と意味付けしているのが自分自身です。

つまり、物の見方を変えれば「良くも、悪くもできるし、ちょっと良くも、ちょっと悪くも、どちらにも、中庸にもできる」わけです。

自分1人でも、感情的になるときもあれば、冷静になったり、論理的に考えたり、仕事人として考えたり、親としての自分、子どもとしての自分、妻や夫としての自分として考えることもあるでしょう。

これが時代や文化、国、男女…と細分化していけば、事実の捉え方は180度変わることもあります。自分1人でも、これだけ物の見方は変えることができます。

そんなことをやっていると、事実に対してプラスにもマイナスにも捉えられるようになりますし、自分を嫌いになるのに飽き、やっぱり自分も良いとこがあるなんて思い始めるものです。

こんなときでも、哲学は使えるんですね。本当に素晴らしいと思います。