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フリーランス3児のママ 禅的子育て 

ペンは剣よりも強し

目黒区の虐待事件を知ってから、心に重い塊のようなものがあるような感じで、スッキリとしません。こういう時は書くに限りますね。

一昨日、園の行事がありました。事件と同じく、5歳の女の子が沢山いました。みんな髪を可愛く結ってもらって、ハツラツとしていて、笑顔で。このくらいの年齢の女の子は、仕切り屋さんだったり、オシャレにこだわりがあったり、しっかりしている子が多いですよね。長男が年長のとき、よく女の子たちにお世話されていたのを覚えています。彼女たちの笑顔を、悲しい気持ちで、眺めていました。

小2の長男の、5歳のときのことを思い出します。以前「5歳で義務教育」という話が出ていましたね。当時長男と話していて、5歳というと幼稚園児より、もう小学生に近いと感じた記憶があります。

5歳にもなれば長期間の記憶力もありますし、複雑な感情も持ち合わせているし、理解力もあり、他人を思いやりもある気持ちもあります。大人とほとんど変わらない会話ができます。

第一子長女で、大人しい性格、さらにあれほどの文章力のある結愛ちゃんですから、優しく、思いやり深く、賢い子だったことが想像できます。結愛ちゃんは何を思っていたのか…想像を絶します。

私の祖母は肺がんで亡くなりましたが、最後は餓死と同じ状態でした。嚥下障害になり、医師からはこうなるともうダメだと話され、最後の2週間は食べることも飲むこともできませんでした。水分を取るだけでむせて死んでしまうから、あげてはいけないという指示があるんですね。

でも、意識も頭もしっかりしており、胃だって元気なわけです。ただ飲み込めないだけで、体は元気。7月の、暑い季節のことです。

飲食禁止になってから亡くなるまでの2週間、祖母は食べ物や飲み物の話しかしませんでした。当時は長男がまだ生後半年で、病院まで距離があるので2日に1回お見舞いに行っていましたが、「一口でいいからかき氷が食べたい」「いなりずしが食べたい」「内緒で水を持ってきてくれ」そういう会話ばかりでした。

「これだったら死んだほうがマシだ」とも言ったそうです。

祖母の死後、最期を見舞った母と私は、精神的にショックを受けました。祖母が亡くなったことはもちろん、その亡くなり方に対してです。最期あのようになってしまうんだったら、何で生きているんだろう、生きるとは何だろう、そういった考えばかり巡った記憶があります。母は半年ほど寝てばかりいたそうです。

今回の事件の父親は、何を思って119番したのでしょうか。

先日長女が痙攣を起こして119番したとき、無意識のうちに「助けてください」と私は叫んでいました。救急車が到着するまでは生きた心地がせず、お願いだから助けてほしい、その気持ちでいっぱいでした。

病院にも連れて行かないのに、最期になってかけた119番は、何のための救急要請だったのか。

ただ、もう人間ではなくなっていたことはわかります。人のできることでは、ありませんから。理解できなくて当たり前なのだけれど、やりきれない。

自分が何を思ったとしても、何ができたわけでもない。けれど、やりきれなくて、結局書くことしかできないけれど。

こういう辛い出来事があるたび、思い出すのが、予備校時代の小論文の授業です。

当時ジャーナリストを希望していた私は、「戦地で取材中、目の前に銃で打たれそうな女の子がいます。あなたは彼女を助けますか、それとも写真を撮りますか」という小論文で、自分はジャーナリストに向かないことを知りました。

同じ問題で、「戦争を止めたいと思ったら、あなたはどんな職業に就きますか」という問いがあったんですね。政治家ではダメなんです。政治家は身動きがとりづらいという話でした。そのときの問いの答えで哲学科に進学することを希望しました。

「ペンは剣よりも強し」-それが原点にあることを、今回の事件でまた思い出しました。

何かあるたびに戻るのは、いつも同じ原点。もう一度自分の行動を見つめ直そうと思います。