何かと理由をつけてやらない、を止められた理由。
夢が答えを教えてくれることがあります。夢を見て、何だそうだったのか、と気付かされることが。
今日見た夢は、長年後悔していたことの答えとなる夢でした。後悔を引きずっていた理由は、「何かと理由をつけてやらなかった」から。
子どもを産んで気付かされたのが、人間の一生はあっという間ということで、好きなことだけやって人生100年生きたとしても短いと感じるくらい世界は広く物事は深いのだから、1番好きなことだけをしようと心に決めました。
それからライターの仕事を始め、子どもを3人育てながらの、今現在。あれから7年経ち、好きなことだけをする毎日。
何故このタイミングで、夢で気付かされたのだろうか。やりたいことが、また出てきたからかな。
何かと理由をつけてやらなかった、その長く深い後悔は、時間が解決してくれるだろうと思っても、してくれなかった。何と他人任せ、時間任せだったんだろう。
でも、あれだけ深く後悔したからこそ、「今は1番好きなことだけしかしない」と強く心に決めることができたと、今では思っています。あれもまた、必要な経験だったんですね。
時間は解決してくれないから、自分で解決するしかないのだ。
夢がくれたメッセージを心に、またこれからを具体的に考えようと思います。
かがやきと、Maxときの連結と、ときと。
実は鉄っ気があります。新幹線好きな長男&次男に感化され、私も鉄道好きに。新幹線とか…たまりません。
今日のお気に入りの1枚はこれ。
かがやき!
Maxときの連結シーン。
わー連結した!
Maxときのマーク
朱鷺色、綺麗ですね。
長男大好きな、とき。
Maxときとかがやきコラボ。
Maxときとときは、もうすぐなくなってしまいますね。まるで建物のように大きなMaxとき、今のうちに見ておきたい。黄色いラインも好きでした。
子どもができて趣味が増えたことは嬉しいことです。
いつの間に「こちら側」に来たのだろう。
小学生の長男を送る帰り道、小学生たちが「おはようございまーす」と私に挨拶をしていく。「おはようございます。」と返しながら、いつから‘こっち側’に立つようになったんだっけ、と思い起こす。
私が‘あっち側’にいたのは、ついこの前のことのようで。大人がいる、ちゃんと挨拶しなきゃって、ドキドキしながら挨拶したっけな。
いつの間にか気付いたら、挨拶される側に立っている。‘こちら側’と‘あちら側’に、大きな差なんてあるのかな? 大して変わらないような気もする。いつだ、いつこちら側に来たんだ。
1人目を産んだときは「お母さん」って呼ばれるのがくすぐったくて、でもすぐにその責任の重さを実感して。夜泣きとか、離乳食とか、イヤイヤ期とか、看病とか…対応しているうちに幼稚園に入園して、「保護者」になって。2人目が生まれ、3人目が生まれ、長男が入学し、いつの間にか私はこっち側に立っていた。
明確な「いつ」は、ないように思う。紆余曲折しながら、喜んだり、落ち込んだりしながら、いつの間にかこちら側に立っていた。
あちら側にいたときの私とは、やっぱりよく考えてもあまり差はなくて。年齢や経験は重ねてきたけれど、相変わらず大雑把だし、おっちょこちょいだし、ポーカーフェイスとかできなくて喜怒哀楽全て出てしまう。子どものためを思って頑張るものの、失敗も反省も多い。
あの頃自分の全てで完璧だと思っていた‘こちら側’は、こんなにも弱くて、不安定で、脆くて、未熟な大人たちからできているとは思わなかった。「おはようございます」と足早に学校へ向かうこの子たちも、いつか同じような感情を抱くのだろう。
そのことに甘えてはいけないと思いつつも、やっぱり未熟な自分は、今日もまた笑ったり怒ったりしながら子どもと過ごしていくのだろう。そして長男が高学年になる頃には、こんなことを考えたこと自体忘れてしまうのだろう。
いつかまた振り返ったときに、それでも自分なりに頑張ってきたと思えるよう、今と自分と向き合って頑張っていこう、そう思うのでした。
祥伝社サイト『mammemo』で執筆しています。
祥伝社のサイト『mammemo』で執筆をさせて頂いています。
普段重めの記事が多いので、こちらではトイトレとか、電車のおもちゃとか…少しソフトな記事も交えて執筆させて頂こうと思います。
正論は、相手を傷付ける
普段、正論をいう機会の多い私。人生修行、人生勉強と思っているので、正論を言われる場合も素直に反省、と心に決めています。
が。
忘れていました。正論を言われたときの、感情面の問題を。
正論を言われ、素直に聞き入れ、反省し次に活かす。その「理性的な部分」の動きがある一方で、感情面はどうでしょうか?
正論を言われるということは、自分が間違っているということ。多かれ少なかれ、自分が間違っていると人は傷付くものです。ドーンと落ち込むものです。
理性あっての感情、感情あっての理性と、理性と感情は相互に関係しあっています。正論を言う方は理性面だけ重視しますが、感情面のケアは考えているだろうか? いくら正論を言っても、感情面が邪魔をすれば、理性は働かないのが人間というものです。
正論を言うなら、感情面のケアも重視した方がいい。こういうことを育児でも、夫婦関係でも忘れてはいないだろうか? 大切なのはきちんと相手に伝わることです。「伝え方」が重要だと、再度強く思いました。
すっかり子どもに戻った30代。
20代前半のとき、経済的にも精神的にも自立して、「一人で何でもやっていける」と思っていました。
ところが30代も半ば。「1人じゃ無理‼︎」と心底思います。まるで、子どもの頃に戻ったよう。
子どもの頃よりも、親に相談するようになりました。長女で甘え下手、何でも自分で決めるのが好きで滅多に相談もしなかったし、しっかりした姿を見せたいという思いもあったのですが。人生で今が一番、親に相談しています。すっかり子どもに戻った気分です。
子育て全般、保護者としての振る舞い、親戚付き合いや冠婚葬祭…現実世界で生きていくのに、自分はあまりにも無知でした。以前は無知ってことを知らなかった。今は「無知の知」なので、少しはマシでしょうか。
周囲に頼るようになって、多くのことを色んな人と話すようになりました。年代的にも、我が子もいるので0歳から隣の90代のおばあちゃんまで、幅広い関わりが増えました。様々な人生があること、歴史があることを知り、多様な価値観も知りました。多様性を知ることで、就職したての頃できなかった「受け流す」ことも少しはできるようになったような。
子どもにとっても、様々な人との関わりがある方が良いよう。1人目産後は自分一人で頑張るなんて意気込んでいましたが、人間の多様性には勝てません。自分一人の、なんとちっぽけなことか。
何より子どもは人が好き。多くの人と触れ合う方が、心の健康にも良いようです。以前NHKスペシャルで人間は集団で生きていくようにできているとみましたが、その通りのようですね。子どもにとっても大人にとっても、人との関わりは大切ですね。
まだまだママとしても7歳。いくつになっても、学ぶことばかりなのでしょう。常に学ぶ姿勢で世の中を見ていきたいと思います。
子育てでは必ずしも「正しさ」が正解ではない
子育ての大きな課題の一つだと思うことについて執筆しました。
「大人としての正しさ」を子どものために良かれと思って押し付けている人も、多いのでは。私自身もそうです。誰が考えても正しいし、子どものためになってるからと確信して、子どもに正論攻撃をする。正論は、上から押さえつける教育と変わりありません。
じゃあ子どもの意見を聞けば良いかというと、そうでもないんですよね〜。子どもはうまく言葉で説明できませんし、プライドもありますから。子どもに「聞き上手」の姿勢を親がとることは大切ですが、そもそもうまく説明できないことも知っておく必要があります。
…こういった記事を書くと、「忙しくてそんな時間がない」という意見もあるのですが、私もそう思います。毎朝アレルギー代用食のお弁当を作り、下の子2人(0歳、2歳)を着替えさせ、7時30分には子ども3人を連れて学校へ歩いて送っていきますが、こういうときに「行きたくない」とか言われると辛い。
「朝からここまで用意して下の子2人連れてもう学校の近くまで歩いてきたのに…2歳は手を繋ぐの嫌がって危ないし…寒いから風邪も心配だし…抱っこは重いし…あ〜疲れた…それにもう時間がない!」と、特に疲れてると考えるんですよね。で、つい正論言っちゃう。
正論言っても、何もならないですけどね。怒っても、何もならない。まぁ、何しても何もならないです、本人動かないので。赤ちゃん抱っこしてるから、私は動かせないし。
もーどうしよう…と一旦空とか眺めて落ち着いて、気持ちを聞き出します。するとポツポツ出てくるので、頭を撫でたりする。気持ちを聞いてもらって、安心してから行くパターンが多いですね。学校では普通に友達と基地作りとかして遊んでいますが、繊細な彼は行くまでの勇気が出ないんですね。
「急がば回れ」というように、上から押さえつけるよりも、心の中を安心させてあげる方が、時間的にも解決が早い例です。
大前提として、子育てって時間がかかるんです。でも大人は時間がない。じゃあどうする?と普段から考えて、具体的な対策を取っておく必要があるのでしょう。子育てに関しては、「急がば回れ」がほとんどだと実感しています。