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フリーランス3児のママ 禅的子育て 

日常でできる子ども哲学③ 「答えを教えない」

①の「否定しない」にも通じますが、子どもとの会話で「答えを教えない」というのも大切です。

物の名前など「考えてもわからないこと」や、命や怪我などに関わることについての答えは教えます。それ以外の「水道の水はどこへ行くんだろう」「鳥は何で空を飛べるの?」などといった質問には、答えを教えないようにしましょう。

教えてしまうと思考をストップさせ、「わからなかったら親に聞けばいい」と考える機会を減らします。逆に答えを教えなければ、子どもは自分で答えを考え出します。

ベストは、一緒に考えること。「水道の水はどこに流れていくんだろう。道路に流すと濡れちゃうし、汚いよね。じゃあ水のたくさん溜まってるところってどこかな?」と思考を広げるキッカケを作ってあげたり、実際に散歩してみたり、調べたり。考えても答えは出しません。何ヶ月、何年とかけてわかればいいのです。

とはいえ、丁寧にやり取りする時間もなかなかありませんから「何でだと思う?」と子どもに聞き、意見を言わせ、「なるほど、でもそれだとこういう時はおかしいよね?」と問題提起をして終わりでも十分です。いずれ子どもが自分で答えを見つけます。

大事なのは結果よりも過程。答えがわかることよりも、「答えを得るまでの考え方と行動」に視点を当ててみましょう。

 

日常でできる子ども哲学②「深掘り」のステップ3つ

前回「否定せず深掘りする」と紹介しましたが、今回は「深掘り」に焦点を当て、3ステップでご紹介します。

①オウム返しする

まず子どもが話をしてきたら、質問せずに言葉をそのままオウム返しします。例えば「◯◯ちゃんとケンカした」と言われたら、「そっか、◯◯ちゃんとケンカしたんだ」と。すると、「何があったの?」と聞かれるよりも次の一言が出てきやすくなり、かつより本音に近い意見が出やすくなります。

オウム返しは、これから2人でケンカについて話をするという「テーマ確定」の役割も果たします。

②Why,How?

次に漠然とした「どうしてそうしたの?」「何で?」などの質問をします。すると子どもは、自分が1番言いたいことに焦点を当て、いろんな話をしてくるでしょう。

③対になるQ

子どものしたい話がある程度出て来たと思ったら、対になる質問をします。たとえば上で見たケンカの話なら、「◯◯ちゃんはどんな気持ちだったと思う?」と相手の立場に立った質問をします。

これ以外にも「大人数↔︎少人数、暑い↔︎寒い、短い↔︎長い」など、対になる質問はたくさんできます。今話してるテーマを反対の立場から考えることで、新たな気付きが生まれるのです。

この3ステップはカンタンで覚えやすいですよね。1つずつでも良いので日常会話に取り入れてみてください。

日常でできる子ども哲学①子どもの話を「否定しない」ことの難しさとメリット

いざ「子ども哲学をやろう!」と意気込む必要はありません。普段の会話から、哲学対話は十分できるのです。もっとも簡単で手っ取り早いのは、「子どもの話を否定しない」こと。とはいえ知識も経験も少ない子どもの発言に、大人はすぐ否定し、正解を与えたくなります。

まずは子どもの話を、否定しないで聞いてみましょう。「今すぐ正したい」とムズムズしますが、むしろ深掘りして聞いてみるのです。

すると気付くはず。子どもは子どもなりに、いろいろなことを考えているのです。たとえ間違いであっても、子どもは自分の経験したことと知っていることをつなぎ合わせ、その子なりの考えを築き上げるのですね。

大事なのは正否ではなく、「その子なりに考えてたこと」。間違えだとしても親が「なるほど、◯◯はそう考えたんだね」と一旦受け止めることで、子どもは安心するでしょう。「自分の考えを受け止めてくれた」という安心感はとても大切です。

間違った答えを、すぐに正す必要はありません。もちろん怪我や命などに関わることなら教えるスタンスで正しますが、そうでない限り、さらに経験を積むことで子どもは自ら間違いに気付いていきます。長い目でみていきましょう。

また、頭で考えたことを実際に口で説明させることで、対話力が上がります。考えていることを口に出すのは、子どもにとっては難しいこと。すぐに否定して正してしまうと、この対話能力をも奪ってしまうことになるのですね。

否定せず、深掘りし、「なるほど」と受け止めてみる。一週間に一度でいいですからやってみましょう。

子どもに哲学って、難しいのでは?

哲学というと、大人でも難しいイメージですよね。ましてや子どもがするなんて…と思われるかもしれませんが、そもそも哲学自体、難しいことではありません。哲学とは、真理を探求すること。ある一つのテーマの答えに向かって、考え続けることです。

大人と子ども、哲学をするのにどちらが有利でどちらが不利と、簡単には言えないでしょう。大人は子どもより多くの経験を積んでいますし、子どもは大人ほど先入観や固定概念に縛られていません。小さな子どもの斬新な意見に、ハッとした経験のある親も多いのでは。

哲学する上では、老若男女、社会的立場、国籍、文化…などなど関係ありません。どんな立場であれ、ただ一つのテーマの真理を探求することこそが重要なのです。

子どもの場合、何にでも「何で?」と聞く時期があったり、物事に対するストレートな意見を言う時期があります。この時期をうまく活用することで、真理を探求する力をうまく伸ばしてあげられるでしょう。

子育ては「大切な子ども時代にいさせてもらっている」という気持ち

32歳の今でも、子ども時代の記憶は特別なもの。

木登りやおままごとや探検と無我夢中で遊んだこと、いつかの夏に行った海や道中の車内での会話など、昨日のことに思い出せます。

何を見ても目新しく面白かったし、自分が祖父母両親から愛され可愛がられる存在なことは、至極当然なこと。外で何があっても家に帰れば自分の居場所があり、ただ生きているだけで、毎日がキラキラ輝いているようでした。

60になっても、90になっても同じでしょう。子どもの頃の記憶は自己の根底にあり、自分をそこはかとなく強くさせてくれる。根拠のない自信に、満ち溢れさせてくれる。人生何があっても頑張れるのは、そんな子ども時代があるからかもしれません。


親側にまわった今、「自分は子どもの大切な子ども時代にいさせてもらってるんだ」と時々思います。しかも母親として。非常に、重要な立場です。

子どもにとって大切な時代にも関わらず、プリプリ怒ったり間違ったなーと思うこともあり、ついつい反省。でもまぁ人間ですし、そんなものでしょう。

それでも「自分は愛され可愛がられて当たり前の存在だった。思う存分自分が自分でいられて楽しかったなぁ」と思い出してもらえるような子ども時代にもしてあげたい。そう振り返るたびに思うのです。

自分がママ/主婦を普通にやってることに真剣に驚く

朝起きて、ご飯を作って、洗濯物を干して、掃除機をかけて。子どもを着替えさせて、遊んでないでちゃんと食べるよなんて声かけて、オムツかえて、宿題を見て。

自分が普通にママ/主婦をやっていることに、時々ふと、真剣に驚きます。

あれ、どーした。私こんなキャラだっけ?こんなこと、できたんだっけ?何偉そうに、子どもに説教してるの?毎日真面目に掃除して洗濯して飽きずに主婦して…へぇ、こんなこと自分にもできたんだ、と。

遊び回る子どもたちを見て、思うんです。私もそっち側にいたのに、いつの間にかこっち側に立っている。いつからだっけ?  いつから私は、大人になったのだろうと。

変化している間は、決して気が付かない。すっかり変わってしまってから、初めて「いつからだっけ?」と振り返ることができる。

こうやって、歳をとっていくんだろう。40になって、50になって、60になって…90になっても思うんだろう。あれ、私はあっち側にいたはずなのに、いつからこっち側にきたんだろう?って。そうやってきっと、この世からいなくなっていくのだろう。

時々今していることが、まるでおままごとのように思える。どう変化していっても、いつまで経ってもそうなのかもしれない。

流れるように人生を見つめている目が、自分の中に一つあります。

イヤイヤも、口答えも。反抗期のお手本は親が見せよう

6歳の中間反抗期と、2歳の第一次反抗期の板挟みになり半年間。

毎日のこと、なので反抗期への対処は難しいですよね。たまになら冷静に対処できるけれど、毎日毎日朝昼晩…とくると、その都度冷静に対処するのは感情ある人間ならムリです。

日々起こる反抗期の嵐の中で思ったのは、親ができることは2つしかない。「まず子どもの話を聞き、子どもが聞く耳をもったところで本当にすべきことを話し合う」こと。

けれどもまず、建設的な話し合いにはなりません。夫婦喧嘩だってそうですもん、仕方ないのかもしれませんね。

それならば、できる限り論理的な話し方を親がしましょう。「服が濡れていると風邪を引くから着替えるよ」「寝るのが遅くなると明日の体育できる疲れちゃうよ」など、論理的な理由を付け足し、親は要望を伝えます。

子どもは親の真似をしますから、次第に親のように、論理的な考え方や言い分を話すようになります。口答えといっても、論理的な口答えができるようになるのです。

どうせ反抗するならば、考える力を上げるチャンスに変えてみる。2歳では理解はできませんが、論理的思考の根っこを作ってあげられます。

何十回、何百回と同じことを言うことにはなりますが、未来のためにも口答えのお手本をしましょう。